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概要

広報ながれやま

5 流山の地名特集 第1520号 平成31年1月1日?「流山」と「赤城山」の古~い関係1粒の椎しいの実から8本の木が育った地「八木」「鰭ケ崎」龍が残した背びれの先人の名前に由来する地名 源氏の名馬伝説が残る「駒木」 古くからある地名には、その名前の由来となる物語が言い伝えられていることがあります。それは民間伝承であったり、石碑や昔の書物に記されていたりします。地名にまつわる言い伝えは諸説あり、語り継がれる中で話に尾ひれがつくことも多いため、内容が必ずしも史実と合致するとは限りません。しかし、長い年月をかけて語り継がれてきた地名伝説は、流山の歴史のロマンがぎゅっと詰まった大切な文化財だと言えるでしょう。このコーナーでは、その一部をご紹介します。問博物館??7159-3434 思井にある熊野神社に伝わる天明4年(1784年)の「八木惣そうちんじゅ鎮守熊野大権現縁起」には、次のような伝説が記されています。 昔、中村の中山七郎左衛門の先祖・勘十郎が熊野を訪れ、新宮にお参りをしたとき、背負っていたつづらの中に御幣と椎の実1粒が飛び込んだ。引き返してそれらを神様に返したが、またつづらの中に飛び込むことが3度続いた。勘十郎は不思議なありがたさを感じてそれらを持ち帰り、椎の実を植え、御幣を祭って八木8カ村の惣鎮守(村の神様)とした。植えた椎の実から木が8本育ったので、この地を「八木」と呼んだ。八木は思井村、中村、芝崎村、古間木村、後平井村、前平井村、加村、西平井村の8つの村から成った。 八木8カ村の惣鎮守とされたのが熊野神社です。この8カ村は「元もと八や木ぎ」と呼ばれました。 また、大正12年(1923年)に発行された「千葉県東葛飾郡誌」に記載がある、三輪野山にある三輪茂侶神社の由緒書きには、次の内容が記されています。 この地を魔人から救った下しも毛つけ野ぬ君のきみという人物の夢に祖先の豊とよきの城命みことが現れ、三み諸もろやま山(今の奈良県の三輪山)に登って槍やりと刀を8回ずつ振ったため、この地を「八木」と呼び、山の名前にちなんで茂侶神社と名付けた。本神社は8本の大杉を神木とし、祭礼の供物は8つずつ。毎年1月8日の祈念祭(※)では8升の鏡餅を供えており、8という数字と縁が深い。※市指定無形民俗文化財のヂンガラ餅行事(8面参照)。現在は8日ではなく1月上旬の日曜に開催されています。 「駒」という字には「馬」という意味があり、駒木にある寺社には「馬にまつわる木」の伝説が残されています。 「千葉県東葛飾郡誌」の中の「じょう成顕けん寺じ記鞍くら掛かけ大龍王縁起」には、次の内容が記されています。 養和年中(1181年~1182年)、源頼朝が、小金ケ原で生まれた名馬に、風かざはや早明神(今の成顕寺)の境内の松にかけた古い鞍を、神の前で初めてかけた。「池いけ月づき」という名前が付けられたその馬が、寿永3年(1184年)に宇治川の戦いの先陣争いで功績をあげたため、風早明神の名前を変えて鞍掛大龍王とした。そしてこの辺りを「駒林の郷」と呼ぶようになった。駒木はその略語である。 諏訪神社には次のような言い伝えが残っています。 寛治年間(1087年~1094年)、源義家が後三年の役に向かう途中、諏訪神社で戦いの勝利を祈った。敵を平定して帰路につく途中もまた、お礼の参拝に訪れ、乗っていた馬と馬具を献上した。その時に鞍をかけたのが鞍掛の松である。●十太夫 ?土地を開発した「重太夫」? 十太夫は江戸時代の早い時期に「十太夫新田」として成立しました。これは土地の開発者の名前にちなむ地名と考えられています。近年の研究では、平ひらもとしゅぜん本主膳定勝の支配下にあった「重太夫」という人物が十太夫開発の担い手であり、同じ音の「十太夫」の文字に表記が変化したのではないかとされています。●市野谷 ?馬の飼育が得意な「市いち野の惣そう太だ夫ゆう」? 江戸時代初期の遠とおとうみ江(今の静岡県)の役人であった「市野惣太夫」が住んでいたことを由来とする説もあります。市野惣太夫は馬の名鑑定士であり、徳川家康に仕えて馬の飼育などで活躍し、役人に取り立てられた人物です。地名にまつわる言い伝え 市の名前でもあり、字の名前でもある流山。その名前の由来には、流山6丁目にある高さ15メートルの小さな山「赤城山」が関わっているという言い伝えがあります。 それは赤城山の山頂にある石碑に記されている「上州(今の群馬県)の赤城神社がある山が崩れて流れ着いたところが流山である」という伝説です。また、明治時代には「もともと川の中にあった赤城山が川に流されてさまよっているように見えた」ことから流山の地名が付いたと考えた歴史地理学者もいたようです。 鰭ケ崎の高台にある、空海が開いた真言宗の寺「東福寺」に伝わる「守龍山東福寺縁起」に、鰭ケ崎の地名にまつわる伝説が記されています。 その昔、弘法大師(空海)がこの高台に立ち寄ったとき、西南にある五色に輝く池に住む龍王が、老人の姿となって現れた。老人は「ここは薬師如来がいるべき土地だから、早く仏像を彫って、それを祭る寺を建ててほしい」と言い残して去った。そこで、弘法大師が仏像を造ろうと材料になる木を探したところ、突然、龍が現れて龍宮の古像を弘法大師にささげた。弘法大師はこの古像を薬師如来の仏像に彫り直し、寺を建てて安置した。この龍が去るときに、背びれの先を少しばかり残していったことから、この地を「鰭の先」が転じて「鰭ケ崎」と呼ぶようになったのである。