ブックタイトル広報ながれやま
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広報ながれやま
第1520号 平成31年1月1日? 2もっと詳しく! 図書館で関連する本を読んでみよう市内の図書館では、流山の地名について体系的にまとめた「流山の地名を歩く」(博物館発行。購入も可)を始めとして、地名伝説を含む民話や、流山の歴史について書かれた本を多数取りそろえています。ぜひお越しください。問中央図書館?7159-4646まちの名がつむぐ歴史か!? き!!?…1文字地名のナゾ 今日まで、地名は誕生と消滅を繰り返し、流山の歴史とともに移り変わってきました。流山には、現在52の字あざめい名がありますが、今年5月には流山おおたかの森駅周辺で大規模な字の区域と名称の変更を予定しており、また新たな歴史が始まろうとしています。 地名は、まちの歴史を知る手掛かりとなる大切な文化遺産です。地名を知ることは、まちを知ることでもあり、姿を消した地名を生かし続けることでもあります。 今号では、流山の地名の変遷を歴史とともに振り返ります。先人たちがこの土地に刻んだ歴史に思いを馳はせてみませんか。問博物館?7159ー3434鎌倉時代までさかのぼる流山で最も古い地名「八木」 流山市域で確認された最も古い地名は、香取市にある香取神宮の鎌倉時代(1185年~1333年)の文書に記されている「矢木郷」です。矢木郷のおおよその場所は、今のつくばエクスプレスの流山セントラルパーク駅周辺一帯(思井、中、芝崎、古間木、後平井、前平井辺り)だったと考えられています。なお、「矢木」は後に「八木」と書くようになります。このように、地名は長い年月の間に表記や呼び方の変化がしばしば起こります。「本土寺過去帳」で知る江戸時代以前の地名 松戸市にある本土寺の「本土寺過去帳」は、室町時代(1336年~1573年)から江戸時代(1603年~1868年)にかけて書き継がれたもので、江戸時代以前に存在した地名を知ることができます。流山市域では「八木(矢木)」「南」「名都借」「加村」「鰭ケ崎」「深井」「桐ケ谷」「野々下」「前ケ崎」「大畔」「長崎」「膝丸(木の小字)」の12の地名が確認でき、その多くが現在の字に引き継がれています。江戸時代の地名村と新田 江戸時代には、市域に多くの村が成立し、現在に伝わる地名も多くなります。江戸時代の地名は、江戸幕府の指示により全国の村名と生産高が一国ごとに帳簿と絵図でまとめられた「郷帳」と「国絵図」で確認できます。それによると、流山市域では元禄15年(1702年)の下総国郷帳(元禄郷帳)に32の村が、天保5年(1834年)の下総国郷帳(天保郷帳)に42の村が確認できます。 地名が初めて資料に登場した時期を調べると、江戸時代以前または江戸時代初期までに開発・成立した「村」と、江戸時代初期より後に開発された「新田」とに分けて呼ばれていたことが分かります。 元禄郷帳に登場する早い時期の新田は、「青田新田」「十太夫新田」「駒木新田」「向小金新田」です。 また、新田の名前には、既存の村による開発であることが分かるものが多くあります。上新宿村が開発した「上新宿新田」や、長4崎村と野4々下村が一緒に開いた「長野4 4 新田」、青4田新田と駒4木新田の関わりをうかがわせる「青駒4 4 新田」などです。県の変遷と行政区画激動の明治時代 明治時代(1868年~1912年)に入ると、それまで幕府領や旗本領だった土地は新政府の管轄となり、明治2年(1869年)に成立した葛飾県に市域のほとんどが含まれました。明治4年(1871年)には廃藩置市野谷の天神社にある力石。左下に「一ノ谷村」と刻まれており、現在と表記が異なっていたことが分かる「本土寺過去帳」から分かる中世の地名鰭ケ崎加村野々下長崎前ケ崎名都借八木(矢木)大畔桐ケ谷南深井膝丸地名が確認できないところは森林や原野が多くを占めていたと考えられています。「字あざ」ってなあに? 字とは、皆さんの住所「千葉県流山市○○…」の、○○に入る地名のことで、市内の区画を表しています。より狭い区画を指す地名である「小こ字あざ」と区別して、「大おお字あざ」ともいいます。大字の単位は明治時代から使われています。 流山市には、「加」や「木」という1文字の珍しい地名がありますね。そのナゾを、字の成り立ちを振り返りながらひもといてみましょう。 江戸時代、流山市域にはさまざまな村が生まれました。その中には「加村」「木村」といった村もありました。その後、明治21年(1888年)に市制町村制が施行され、「明治の大合併」の流れとともに明治22年(1889年)に「流山町」「八木村」「新川村」の一町二村が誕生します。その際に、江戸時代からの全ての旧村の名前から「村」の文字が取られ、それぞれの旧村は「大字」という単位に変わりました。こうして、村の文字が取られた「加村」「木村」が、そのまま「加」「木」という1文字の地名となったのです。 地名には、その土地の自然の恵みなどの意味が込められていることが多く、歴史と関連付けて考えると理解が深まると思います。私は上かみ新しん宿しゅくの生まれですが、この地名も興味深い成り立ちがあります。昔、流山市域が属した葛飾郡の区域に「新宿村」が3つあり、後に、区別するために北から順番に「上新宿」「中新宿(柏市)」「下新宿(市川市)」としたのだといいます。また、「八木」という地名の由来は諸説ありますが、弓矢の矢に用いる竹である「矢や篠じの」がよく生えたことからきているという研究があり、私が作詞をした八木中学校の校歌には「矢篠刈る 八木の里原」という一節があります。 地名伝説もおもしろいものがありますね。全国的にも珍しい「流山」という地名の「上州の赤城山が流れてきたから流山」という伝説は実に味わい深く、人に誇れる良い名前だと思います。地名は、長い歴史の中で土地や人々の暮らしに深く関わってきたものなので、これからも大事にしていきたいですね。土地や人々の暮らしに寄り添ってきた地名作家・郷土史家 伊藤 晃さん(加在住、91歳)特集:流山の地名