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概要

広報ながれやま

3 特集:流山の歴史と文化流山本町 江戸回廊B一茶双樹記念館白みりんの醸造で財をなした秋元三左衛門の本家跡。五代目・三左衛門(俳号:双樹)と親交のあった小林一茶はたびたびこの家を訪れ、俳句を残しました。G浅間神社富士信仰のため根郷地域の鎮守さまとして、正保元年( 1644年)に創建。本殿裏手の富士塚(H)は、江戸時代に多くの参拝者で賑にぎわいました。F常与寺明治5年( 1872年)に教員養成のため「印旛官員共立学舎」が設置された場所です。絹けんぽん本著ちゃく色しょく日にちれん蓮上しょう人にんぞう像が市指定有形文化財です。C万華鏡ギャラリー寺田園茶舗 見世蔵明治22年( 1889年)に建てられた茶の店「寺田園茶舗」の旧店舗を改装。市内在住の万華鏡作家・中里保子さんの作品展示などを行っています。A赤城神社赤城山(群馬県)の土が流れ着いてできたとされている神社の小山が「流山」の由来ともいわれています。毎年10月に行われる「大しめ縄行事」は市指定無形民俗文化財です。E近藤勇陣屋跡新選組局長・近藤勇の最後の陣営地。流山は副長・土方歳三との今生の別れの地となりました。D閻えん魔ま 堂(木造閻魔王坐像)明治34年( 1901年)に再建されたお堂。安永5年(1776年)ごろに作られた閻魔王坐像が祀まつられています。11房総地方最初の県庁所在地NPO法人流山史跡ガイドの会 100年以上の歴史がある流山本町には、貴重な文化財が数多く点在しています。武士や商人、文人たちが行き交った江戸?明治?大正時代に思いを馳はせて、街歩きを楽しんでみませんか。A B CDE FGHI 明治初期、木村を除く現流山市域の村々は「葛飾県」やそれに続く「印旛県」に属し、両県の県庁所在地が現在の加に置かれていた。現在の中央図書館・博物館の敷地にある「葛飾県印旛県史跡」の碑(=写真)は、ここに県庁があったことを記念して建てられた。 新政府は、下総国に「葛飾県」を置き、現静岡県藤枝市にあった田中藩が加村台に設けた「本多家加村台御屋敷」(通称田中藩陣屋)を県役所(現県庁)に決定した。当時、空き家となっていた御殿と54軒の長屋は、県役所に絶好の施設であった。 1 4 9年前の明治2年( 1869年)1月13日、流山の加村は、房総地方の最初の県庁所在地となった。 流山に県庁が置かれた理由は、江戸・利根川の舟運の利があったこと、加村台屋敷の大きさが県庁に適当であったことに加え、みりんなどの醸造業で栄えた有力商人の存在があったことである。 なお、安房・上総には、1カ月遅れで宮みやざくけん谷県が設置された。葛飾県は、下総国の大名領を除く7郡と武蔵国葛飾郡北部におよび、総石高28万石、県民約23万人であった。 明治4年( 1871年)に廃藩置県が断行され、続く府県統合により、下総国では葛飾県を母体に旧藩の6県を併せて「印旛県」が成立した。印旛県の県庁や裁判所は、引き続き旧葛飾県庁の加村に置かれた。総石高は約46万石、県民約46万人に達した。 初代県令には河瀬秀治が任命された。河瀬は明治5年( 1 8 7 2年)、いち早く「印旛官員共立学舎」を立ち上げ、千葉県近代教育をリードした。その伝統は、現在の流山小学校に引き継がれている。 また、同年に印旛裁判所が設置され、現在の市役所付近に置かれた。裁判所もまた県庁と同じく、千葉県下で初めて流山に置かれた。 明治6年( 1 8 7 3年)6月15 日、印旛県と木更津県が合併して千葉県が誕生し、県庁や裁判所、印旛官員共立学舎は千葉町(現千葉市中央区)に移った。県庁が置かれたことは、流山の当時の繁栄を示しており、博物館では当時を物語る資料が見られる。昭和36年(1961年)ごろの街並み 流山広小路の浅間神社(G)の社殿の裏にある富士塚。その高さは約8mで、1合目から9合目までを示す石造物などがあり、登り切ったところには富士浅間大神の碑(=写真)が建てられています。 江戸時代後期、関東では富士講を結成して富士山に登拝することが大流行しました。そこで町内の人々は、富士山まで行けない人のために、明治25年( 1892年)に富士山の溶岩を江戸川で運んで富士塚を造ったといわれています。頂上まで登ることで、実際に登ったのと同じ御利益を得たいと願う庶民の心が感じられます。 現在でも富士塚に登ることができ、天気のいい日には、塚の上部から遠方に富士山を望むことができます。H浅間神社の富士塚 中央図書館・博物館の入口には「葛飾県印旛県史跡」の碑が建っています。149年前の明治2年( 1869年)から4年間、葛飾県・印旛県の県庁が流山にありました。明治5年( 1872年)には加村には裁判所が、流山村には教員を養成する学校が設置されたとの記録が残っています。 昨年9月に博物館の隣で宅地開発に伴う発掘調査が行われました。調査では、弥生時代・古墳時代の集落とともに、県庁があったころの生活道具が出土しました。その一つに、磁器でできた水滴(硯すずりにさす水を入れる容器=写真)が発掘され、その側面に右書きで「裁判所」と墨書きされているのが確認されました。裁判所が加村にあったことを証明する史料で、とても貴重な発見となりました。I流山に裁判所があった「裁判所」の墨書き