ブックタイトル広報ながれやま

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概要

広報ながれやま

特集号 平成29年1月1日?4 相馬市は、福島県の浜通り北部に位置し、「相馬野の馬ま追おい」や相馬民謡が有名です。資源を生かした農業、水産業、観光が盛んなほか、相馬中核工業団地を造成し、企業の立地促進を進めています。 信濃町は、長野県の北端に位置し、北信五岳(妙高山、黒姫山、飯いい縄づな山、戸と隠がくし山、斑まだら尾お山)に囲まれ、妙高戸隠連山国立公園の一部として風光明めい媚びな高原盆地帯にあります。酪農のほか農業も盛んで、そばやブルーベリー、フルーツのように甘いトウモロコシが特産品です。 能登町は、石川県・能登半島の北部に位置し、九つ十く九も湾などの景勝地を有する海岸があります。海産物が有名なのはもちろん、日本四大杜とう氏じに数えられる能登杜氏の酒は伝統文化であり、特産品でもあります。重ねた時代の分だけ歴史が紡がれる-流山に残る歴史の浪漫 ここ流山にも、地名の由来や地域独自の伝説、歴史が多く残っています。それだけではなく、歴史上の人物が訪れていたり、調味料の発祥の地であったりと、しっかりと日本の歴史の一部に流山が刻まれているのを感じることができます。その全てを紹介することはできませんが、流山の歴史は、博物館での常設展や、図書館に所蔵されている市史などの書籍でも学ぶことができます。そしてぜひ、現地を訪れ、これまでの歴史に思いを馳はせてみませんか。勇壮な武者行列の「相馬野馬追」は国の重要無形民俗文化財石川県無形民俗文化財の「あばれ祭り」。高さ7メートルの奉燈「キリコ」が火の粉の中を乱舞するのは圧巻一茶を慕う人たちによって建てられた俳諧寺(一茶おもかげ堂)東武野田線つくばエクスプレス鰭ヶ崎駅流山セントラルパーク駅JR常磐線南柏駅豊四季駅前ケ崎城跡 「洪水で上州(現在の群馬県)の赤城山から崩れた土が流れ着いた」や「山が流れてきたから流山」の地名が付いたという伝説があります。その「流れてきた山」とされているのが流山本町にある赤城神社です。別の説では、「赤城山のお札が流れ着いたから」とも言われています。 また、赤城神社では、長さ約7メートルの大縄を3本撚より合わせ、1年間保存塔に掲げる、市指定無形民俗文化財の「大しめ縄行事」(=写真)が毎年10月に行われます。福島県相馬市長野県信濃町石川県能登町歴史がつなぐ距離を越えた絆きずな・姉妹都市【流山市とのつながり】 下総国相馬郡(現在の千葉県北西部)は、相馬氏が支配していました。相馬師もろ国くにの養子となった、下総国の豪族・千葉常つね胤たねの次男・師もろ常つねは、父・常胤とともに奥州合戦(源頼朝率いる鎌倉軍と奥州藤原氏の戦い)に従軍し、その功により奥州行方郡(現在の南相馬市の辺り)を与えられました。その後、師常の子孫である相馬重しげ胤たねが奥州に家臣を率いて移り住み、この地方を治めたことを縁とし、昭和30年代頃から市民間の交流が盛んに行われ、友好親善都市の関係を経て、姉妹都市の盟約を結びました。【流山市とのつながり】 信濃町で誕生した俳人・小林一茶は、全国を俳句修行で歴遊し、流山には50回以上も訪れ、多くの俳句を残しました。足繁く流山を訪れた背景には、市内でみりん醸造を営む五代目秋元三左衛門(俳号=双樹)の存在がありました。俳句を通じて当地で一茶と交流を持ち、自宅に逗とう留りゅうさせるなど手厚くもてなし、一茶もこの地を第二のふるさとと慕っていたようです。本市に「一茶双樹記念館」が開館したことをきっかけに交流が盛んになり、姉妹都市の盟約を結びました。【流山市とのつながり】 昭和初期に、白みりん発祥の地として醸造業がさかんであった旧流山町に、能登杜氏をはじめとした能登町民(旧内浦町民)が数多く移り住むようになりました。その縁により昭和60年頃から交流が活発に行われるようになり、姉妹都市の盟約を結びました。また、夏休みには、流山の小学生が能登町を訪れ、雄大な自然を能登の小学生とともに体験するツアーが行われています。 流山運転免許センター近くの、木々が生い茂った山のような場所に前ケ崎城跡があります。現在、主しゅ郭かくに当たる台地の突端部を公園として整備し、保存しています。 前ケ崎城の歴史は古く、室町幕府8代将軍・足利義政の時に関東地方で30年近く続いた内乱「享きょう徳とくの乱」(1455?1483年)にその名を見ることができます。享徳の乱とは、幕府によって置かれた関東の統治機構・鎌倉府のトップ(鎌倉公く方ぼう)足利成しげ氏うじが、関東管かん領れい(鎌倉公方を補佐する役職)の上杉憲のり忠ただを暗殺したことに端を発するものです。乱の後期には、上杉家の中で家臣による反乱も起き、流山市域周辺では度々、公方側の千葉孝のり胤たねと、上杉氏側の太田道どう灌かんが死闘を繰り広げました。その際、孝胤にこの城は落城され、太田六郎(道灌の弟?)と戸張彦次郎という武士が戦死しています。 戦国時代に入ると、東葛地域で最大勢力を持つ小金城主・高城氏が前ケ崎城を支配していたと考えられています。城主は、高城氏家臣・田島刑ぎょう部ぶの少しょう輔ゆうとする説や花野井氏とする説がありますが、詳細は分かっていません。 その後、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めた際に、北条方だった高城氏の小金城を攻め、降伏・開城させました。併せて前ケ崎城、名都借城、花輪城、深井城も開城したと考えられています。古くから度々合戦の場となった前ケ崎城