ブックタイトル広報ながれやま
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広報ながれやま
3流鉄流山線開業100周年特集開業100周年に寄せて流鉄株式会社取締役社長小宮山英一謹んで新年の御挨拶を申し上げます。本年3月14日に、町民鉄道として発足した流鉄は開業100年を迎えます。これを機に、流山・松戸両市の皆様、両市当局のご支援により立ち上げた流鉄開業100周年記念事業実行委員会が今後数々のイベントの企画・実施を予定しております。流鉄は小規模な鉄道ではありますが、これまでどこの系列にも属さず、幾多の試練も独力で乗り切り、地元の鉄道として独自の経営を行ってまいりました。今後も地元に愛される鉄道としての使命を貫いていく所存でございます。100周年記念の数々のイベントを機に流鉄が少しでも沿線の活性化、市民サービスの向上に寄与できればこれまさに傑る慶びはございません。結びに、皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げ、挨拶とさせていただきます。関わる人すべてに愛されてきた鉄道著述家・山本文男さん(江戸川台在住、88歳)私は昭和33年から流山市に住んでいますが、当時は地区が離れていたこともあって、流鉄の存在を知りませんでした。市内の暮らしや出来事を、市民だけでなく全国に発信するために、タウン誌「流山わがまち」を創刊し、市の歴史をひもといていく中で、流山にとって、みりんと流鉄は欠かせない存在だったと分かりました。流鉄は、当時の方々が作った町の足であり、誇りだったのです。流鉄は、開業からずっと経営者・従業員・住民によって支えられ、愛されてきた鉄道です。普段乗らない方もぜひ、乗って各駅で降り、探検してほしいですね。各駅周辺には流山の歴史が残るお寺や神社などがたくさんあります。これからも、市民に大事にされ100年走り続けてきた流鉄を、市民の力で残してほしいと思います。山本さんは、広報ながれやま(11日号)でコラム「ものがたり・流鉄百年」を連載中です。トーヨーカドーや流山南高校電化から12年後の昭和37年和42年(1967年)、本社をけられるのかもしれません。張所(現在の流山9丁目。イ休業になったことでした。昭流鉄の姿に、私たちは引き付ま大っ正た、12年陸(1923軍糧りょう秣まつ本ほん廠年しょう流)か山ら出始現在の流鉄へになり移転)の工場の一つがに運んでいます。そのような貨物業務の廃止、(その後、メルシャン株式会社も変わらず利用する方を真しん摯したひとつに挙げられるのが、会社に改称しました。線にあった東邦酒類株式会社もその背景を感じさせず、今さらに、増加の要因となっです。よき時代も苦難の時代式会社となりました。ような激動の歴史があったのから「軽便」が外れ、流山鉄道株にも昭は電和社化名が24年も(1949完流了山し電、気そ鉄の年道)に株2年流式後鉄トラック輸送への転換や、沿原因は、道路網の整備による減少を続けていました。そのを走り続ける流鉄には、このした。また、このころに、社名線が松戸~取手間を電化したその一方で、貨物輸送量は昔の面影を残しながら現代物輸送量増加の要因となりまケースは非常に珍しく、常磐線に改称し、現在に至ります。移動が活発となり、乗客数と貨所を持たずに電化するという震災の影響により人や物資のうことが決まりました。変電鉄成株式20年会(2008社に、路線年名)にをは流、山流おり、江戸川改修工事や関東大写真3裏山(現在の市役所南側辺り)から見た野田醤油株式会社流山工場。カーブしている線路は工場への引き込み線(昭和15年ころ、キッコーマン国際食文化研究センター蔵)国鉄から電力を融通してもらに総武流山電鉄と改称し、平写真2流山停車場に停車中の蒸気機関車(大正7年、呉服婦人服新川屋蔵)電化のための活動を開始し、社名は、武蔵野線完成の前年常与寺このはな幼稚園流山キッコーマン株式会社図当る時たのめ流、昭山和町長22年・(1947中村寛次が年)、を廃52年止(1977することと年な)にり貨ま物し輸た送。流山商工会議所なりました。電化後の採算を取終わると輸送量は激減、昭和経済的な電力に移行することに6流山1号公園戦後、流鉄の動力は、経費がにさ武れ蔵、野昭線和が完47年(1972成し、工事年が)終戦、そして動力を電気へ流山工場の引き込み線が撤去流山駅引き込み線跡(1969流鉄流山線現在も道路として引き込み線跡が残る担っていたのでした。写真4線路の両脇は人が通れるようになっており、「電車道(でんしゃみち)」と呼ばれていた(昭和33年ころ、個人蔵)少増加。しかし、昭和年)にキッコーマン44年流山市役所輸れ(送=と図し、て写の真重3)、流鉄は貨物要な役割を4た0た0め万で人、台さをら数にえま10年す後。には鉄が使用され貨物輸送量は多ると、その建設資材輸送に流流山駅から引き込み線が作らは、沿線の宅地開発が行われ国鉄武蔵野線の建設が始ま常磐線との貨物直通運転を行れ違い)設備を整備し、翌年にごく普通のこととなってきてために流鉄は線路幅を広げ、はた、、キ昭ッ和コー4年(1929年)にマン流山工場へに、小金城趾駅に列車交換(す人々が鉄道を利用することが保管するもの。物資の輸送のき込み線が作られました。まよ年う)になは急3激1な3伸万びを9千41年(1966人。このみせたの同年に輸送量を倍増するためが不況になるころには、流山の?出張所は食料や軍馬の飼料を平和台駅付近から出張所へ引り人まをし超たえ。、昭10和年前の約2倍となを流山電鉄株式会社に変更。及びました。大戦後、日本の付近)の建設でした。このいました。そのため、現在の(1962年)、乗客が200万東京から流山に移転し、社名株式会社流山新聞社?山本文男(1994年)「流山電鉄七十八年ぬくもりの香る町と人の物語」? ?総北武野流道山彦電(鉄1七9十7年8史年編)「纂総委武員流会(山1電9鉄8の8話年「)「町総武民流鉄山道電」の鉄七60年」崙書房十年史」崙書房【主な参考文献】2016平成28年3月3月14日に開業100周年を迎える12日に開業100周年記念祭実施(5面参照)照)などを実施2015平成27年けア開て電9月業走車に100る」行「をっ絵皮た画切車電り両車にと」(、小駅4学の面生ホ参がー照描ム)やくで「絵飲ろ画食ことがどヘ楽るッし電ドめ車マる」(ー「ク流5面を鉄参付ビ周年記念事業スタート。20132010平成平成25年22年幸市ホームページ終谷在日駅住ワンマンにのバ高リ齢ア者開運フ対設転リ象。開ー)運始対。転の応免ダイヤス許ロ証ー自改プ主正完返、成納土割休引日運ダ賃イ開ヤ始開(始流。山2009平成21年昼間時間帯ワンマン運転開始2008平成20年社名を「流鉄株式会社」に、線名を「流山線」に改称2003平成15年自動列車停止装置(ATS)を設置。使用開始2002平成14年一般乗用旅客自動車運送事業廃止1998平成10年流第山駅5回が「認鉄定道さのれ日る」を記念し、第2回「関東の駅100選」に1994平成6年初の冷房付き車両を導入1990平成2年西平井変電所竣功1984昭和59年荷国物鉄運(輸1営9業8廃7止年。に鰭民ヶ営崎化駅)のと改の築連工絡事直竣通功貨車取扱廃止。手1982昭和57年く両幸式が谷に入駅変れ移更な転い。よ列う車に運す転るの方閉法そ)をくタ方ブ式(レ一ッ定ト区式間かにら自2つ動以閉上そ車1978昭和53年愛称付き車両を導入1977昭和52年「流鉄松戸ビル」完成。貨物取扱中止1975昭和50年飲食業営業開始1974昭和49年4赤0城0台万駅人を台平へ和。休台日駅ダとイ改ヤ称設。定宅地建物取引業を開始。旅客1971昭和46年用「開総始武流山電鉄株式会社」と改称。馬橋駅流鉄専用ホーム使1967昭和42年で小列金車城交趾換駅運移転転開。「始流山電鉄株式会社」と改称。小金城趾駅